概要

現在知られている物質の基本構成粒子は6種類のクォークと6種類のレプトンであり、自然界の4つの基本相互作用のうちの一つである強い相互作用はクォークに作用する。この力はエネルギースケールによってその性質を変え、様々な物質の様相をもたらす。近距離領域においてはクォーク・グルーオン間相互作用は弱くなる(漸近的自由性)のに対して、長距離領域においてはクォークやグルーオンはハドロンの中に「閉じ込め」られて決して単独で観測されることはない。更に大きなスケールになれば、陽子・中性子を結合させて原子核を構成する。我々の目的は、強い相互作用の基礎理論と考えられているQCDについて、格子QCDを用いた第一原理計算によってその正しさを検証し、階層性を持つダイナミクスを定量的且つ統一的に解明することである。

格子QCDによる第一原理計算は大規模数値シミュレーションによってのみ定量的に可能であるが、物理的に信頼できる結果を得るためには、(a)自然界に存在するup, down, strangeの3種類の軽いクォークを全て取り入れ、(b)各クォークの質量を自然界での値に取り、(c)サイズの影響が無視できる大きさの格子を採用することが、系統誤差をコントロールするために必須だと考えられている。我々は先ず今日まで誰も成し得なかった上記3条件を満たす計算を実現し、ハドロンの質量スペクトルの実証等を行なうことによって素粒子の強い相互作用の基本法則としてのQCDを確立する。

本プロジェクトで生成されるグルーオン配位は自然界そのものであるので、その上で、様々な物理現象を研究する二次解析が行える。代表的な例の一つに原子核を説明する核力等のハドロン間に働く力の解明(1934年の湯川秀樹の中間子論以来の課題)がある。格子QCDはこれまで陽子やπ中間子などハドロン一体の性質を調べることに注力してきたが、クォークとグルーオンの自由度を用いて直接原子核を構成することが出来れば、格子QCDを用いたマルチスケールフィジックス研究という新たな時代の幕開けとなる。これは、従来の素粒子・原子核物理の研究の在り方に抜本的変革をもたらすと予想される。また、もう一つの重要な物理研究の対象として、物質・反物質の非対称性に関わる素粒子模型の検証等がある。具体的には、陽子崩壊等の新しい物理を探るために必要なハドロン行列要素の計算や、Weinberg-Salam理論に含まれるCabibbo-小林-益川(CKM)行列要素の決定に必要な種々のハドロン形状因子の計算が挙げられる。

これまでの成果

格子QCDを用いた数値計算の最大の特徴は大規模シミュレーションによる非摂動的な第一原理計算という点であり、それは強い相互作用の定量的理解を可能とする。しかしながら、クォーク質量が軽くなるにつれてシミュレーションに要する計算量は飛躍的に増大するため、物理的なu、d、sクォーク質量上でシミュレーションを行なうことは、格子QCD創始以来30年にわたる目標であった。今日までの典型的な計算においては、先ずu、dクォーク質量を縮退させ(アイソスピン対称化)、更にその物理的な平均質量の約10倍程度の質量で計算を行い、結果をudクォーク質量に関して外挿するという方法が取られてきた。この問題を克服すべく、我々は平成18年に稼働を開始したスーパーコンピュータPACS-CS(筑波大学計算科学研究センターにおいて開発・製作された超並列クラスタ計算機、ピーク演算性能14.3Tflops)を用いて、物理的なud、sクォーク質量上でのシミュレーションが現実に可能であり、更にそれが物理的に本質的に重要であることを示した。

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右図はアルゴリズムの改良によって過去10年間に計算コストがいかに削減されたかを表している。黒線は、2001年当時における標準的なアルゴリズムHMC(Hybrid Monte Carlo)による計算コストの予測であり、物理点(physical point)に近づくにつれて計算コストは急激に増大しており、HMCによる物理的なud、sクォーク質量直上でのシミュレーションは不可能であった。他方、青丸は現在我々が用いているDDHMC(Domain-Decomposed Hybrid Monte Carlo)アルゴリズムの実際の計算コストであり、物理点でのシミュレーションが現実的に可能になったことがわかる。

格子QCDは第一原理計算を標榜しているのだから、物理点でのシュミレーションを目指すべきなのは当然であるが、実際問題として、物理点でのシミュレーションがなぜ必要なのかを端的に表している例をみてみよう。左下図は、π中間子質量の2乗と縮退したudクォーク質量の比をudクォーク質量の関数としてプロットしたものである。PACS-CS機を使って得た結果(赤丸)は明らかな曲率を示しているのに対して、CP-PACS機(PACS-CS機の前身)を使って得た結果(黒丸)はほぼ直線に見える。この図から、重いクォーク質量領域からの外挿(直線)は誤った答えを与える可能性があることがわかる。実際、理論的にもクォーク質量がゼロの近傍で対数的なクォーク質量依存性が予言されており、PACS-CS機の結果に見られる曲率は理論的予想を裏付けている。対数的クォーク質量依存性を精確に再現し、外挿によって正しい物理点での値を得ることは現実的には非常に難しいが、いまやその必要はなくなったと言える。

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右上図は物理点におけるハドロン質量スペクトルを実験値と比較したものである。大半の粒子については統計誤差の範囲で一致しているが、そうでない場合でもズレは最大で2-3%程度である。

今後の計画

物理的なud、sクォーク質量上でのシミュレーションが可能となった現在、先ず決定されるべきはQCDのフリーパラメータであるクォーク質量である。また、生成されるグルーオン配位を用いて計算すべき重要な物理量として、η'質量、ρ-ππ共鳴質量・崩壊幅などが挙げられる。これらは強い相互作用のダイナミクスによって支配されている興味深い物理量であり、格子QCDによる非摂動的計算が強く望まれている。更にその次の展開は微細化とマルチスケール化である。微細化とは電磁相互作用やアイソスピン対称性の破れの効果を取り入れたシミュレーションの実現を意味する。例えば、QCDの基本パラメータであるu、dクォーク各々の質量の精確な決定は、電磁相互作用やu-dクォークの質量差を正しく取り入れたシミュレーションを実行することなしに成し遂げることはできない。他方、マルチスケール化とはクォーク・グルーオンの力学を記述するQCDを用いてハドロンの一つである核子を作り、更にその結合状態である原子核の生成や原子核-原子核反応の計算など巨視的スケールの物理を探ることを意味する。微細化とマルチスケール化は全く異なる方向性のように見えるが、実は密接に関係している。例えば、最も単純な核子結合状態である重陽子の結合エネルギーは約2MeVであり、これは荷電-中性π中間子の質量差や、陽子-中性子の質量差と同程度である。つまり、電磁相互作用やアイソスピン対称性の破れの効果を取り入れた格子QCD計算の微細化なしに巨視的スケールの定量的計算はあり得ない。

Center for Computational Sciences, University of Tsukuba